会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

セミリタイヤは誰でも選択可能か?

こんにちは、curiosです。


私が最後の会社に勤めていたとき、セミリタイヤという言葉を知っている人は、恐らく皆無だったと思います。


言葉は悪いですが、皆なその日暮らしのスタイルだったと思います。実際給料日まで持たないという人もいましたし、キャッシングのお世話になってる人もいました。


そういう生き方をしている人たちにとって、『セミリタイヤ』なんていう概念は、恐らく想像も付かないものだったでしょう。彼らは生きるためには働かなくてはいけないという思考に囚われ、そのサイクルを死ぬまで繰り返します。


私は、若い頃からこの社会の成り立ちがとても自分に許容出来るものではないと考え、なんとかそこからの脱却が出来ないかと考えていました。会社にいてもなんにも楽しくないのです。


何故楽しくないか?それは私がこの社会に適応出来ないのと同時に、前者のような人たちが幅を利かせていたからだと思います。そもそもの価値観が違う人たちに、自分の考えを理解して貰おうなんていうのは、ほぼ不可能です。


言葉は悪いですが、その日暮らし的な思考回路を持っている人たちは、使うお金もどんぶり勘定的なことが多いです。好きな物を買い、好きなことをする。給料を貰ったら全額下ろし、ほぼ使い切る。


私は、不遜ですが、何故社内積み立てのようなものがあるのか常々疑問に思って来ました。積み立てなんて自分でやればいいだけのことなのに、それを会社にわざわざ段取って貰うなんて、却って手間じゃないかと。


ですがその理由はやがてわかりました。手元にあればみんな使ってしまうという人が少なからずいるからです。そうして、そういう人たちは、社内積み立てのおかげで、満期にこれだけ溜まった、とほくほく顔で言い合ったりしています。


悪いですが、失笑してしまいます。そのくせ彼らは、仕事に関しては結構な自信を持って強気で押し通したりします。言ってみれば、エゴが強いのです。


そのエゴの強さは、自分はもう一生このサラリーを当てにして生きて行く、という言わば開き直りから来ているような気がします。そこに疑問を抱いたりはしません。


私は、言わば人生に於いて疑問だらけで生きて来たので、そういう堂々とした人たちからみると、自信なさ気に見えていたと思います。だから突っ込まれ感が満載だった。決して能力的なことで劣っていたわけではありません。


ですがこの社会に於いては、自分に自信を持つということがひとつの武器であることが多いです。だから私はいちいち躓き、人に蔑まれることが多かった、と分析します。


そして私は54で会社を辞め、ひと先ずはセミリタイヤという生き方に落ち着きました。


残っている人たちは、そのまま会社に勤め、サラリーを貰い、定年まで勤めることと思います。


きっと彼らは、貰った給料を全部使い切り、貯金なんてロクに出来なくても、自分は定年まで勤めたということを誇りとするでしょう。


私は、その前にセミリタイヤ出来る生活設計をして、あのロクでもない会社員生活から逃れることが出来たというのを誇りに思います。


セミリタイヤは誰でも選択可能か?私は彼らには予想も付かない道を見つけ出し、想像を超える生き方を選択出来ています。私がまたサラリーマンに戻るというのはそんなに難しくはないですが(勿論仕事を選ばない前提として)、彼らがサラリーマン以外の人生を選択することは難しいと思います。例え定年まで勤め上げて、退職金を満額貰えたとしても、彼らはヘタをすればその退職金すらなにかに当て込んでいる場合があります。そうしてそのまま会社に残って、65、70になっても国の思惑通り働くという道を選択する。


この時点に於いて、セミリタイヤというのは、誰でも選択可能な生き方ではない、ということが言えると思うのです。

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