会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

生きる方策

ここ数年で日本国内の経済的格差はますます拡がってしまったと思います。


大企業及びそこに属している人、官公庁並びに役所などの公務員、或いは事業をやっていて安定した収入を得ている人。


そういった人たちはこの不景気下にあってもまったく動じることはなく、自らの基盤をより強固なものにしています。


一方、中小企業で働いている人たちや、雇用が不安定な派遣や請負社員、或いは家がそもそも貧乏で経済的バックグラウンドのない人たち。


そういった人たちは賃金が物価の上昇に追い付かず、可処分所得の更なる減少に喘いでいます。


そして、政府はもうこの流れを是正する気もなく、上流階級の自分たちが傷付かないというのをいいことに、この格差社会を黙認しようとしています。


言ってみれば、もう格差があるのは当然のことで、上級国民はその資産と階級によって永久にその地位が保証され、下級国民は一生努力してもその身分から這い上がれないという、目に見えない壁のようなものが形成されてしまった、ということです。


最近のマスコミの情報の閉鎖性は、その階級制が、益々強固になりつつあるということを暗示していると思います。


この絶望的ともいえる流れに、我々庶民が対抗する術はあるのか。


正攻法では無いと思います。資産を築けば築いただけ幸せになれるとされるいまの社会の在り方では、どう転んでも我々が浮かび上がれるという見込みはありません。


ではどうすればいいか。


私はこう思います。資産を築けば築くだけ幸せになれるというスタート地点が、そもそも間違っているのでは無いかと。


仮に、その人の人生で、なんとか食べて行けるだけの経済的見込みが立ったとしましょう。


食うや食わずの生活を強いられて来た人にとって、その状況は、これ以上望むべくもないぐらい幸せなものだと思います。なんたって、ひもじい思いをすることなく、温かい食物にありつけるのですから。


この幸せは、実は人間の幸福のなかでも最大のものです。生きるという根本的な欲求に訴えかける、原初の本能だからです。


だからといって、いつでもひもじい思いをしなければいけないというわけではありません。大事なのは、恐らく多くの人が盲目的に信じ込んでいる資産の絶対性に、風穴を開けるような生き方を見付けるということです。


結局、私だって世間のそういう見方に抗うのは困難です。会社を辞めて、あいつは困っているだろうなという同僚の憐みの視線に、あっけらかんと笑って済ませられるかというと、怪しいものがあります。金銭的には困っていないにせよ、やはり経済的な体制みたいなものは失ってしまったからです。


そこに無知で愚かな世間一般の誤解が混じっているとしても、その誤解に対して毅然と反論出来るだけの論理的整合性を確立しなければなりません。


それさえ確立すれば、自分が生きて行く方策は、見つかったも同然です。

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