会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

セミリタイヤという道を選択させたこの社会の愚かさ

こんにちは。


一社会人として、セミリタイヤという道を選択したことは、必ずしも誇れるものではないと思っています。


何故なら社会人というものは、社会参加してこその存在だからです。多少嫌なことがあっても、総体としてこの社会に参加している、という実感があれば、多少のことは水に流せるものだと思います。


ここで散々働くということへの異議を唱えて来ましたが、若い頃はそれでも社会の何処かへ所属しようという気概がありました。折角の若さを無駄にしては勿体ない、という前向きな姿勢もあったと思います。


自分の能力をそれなりに活かしたいという思いもありました。クサいですが、世のためにそれを活かすことが出来れば、それに越したことはないと思っていました。


これは如何にも、若さ故の感情だと思います。そして社会もそういう考えを尊重し、そういう考えを持った人材を有効に活用出来るような仕組みを作れば、もっと社会全体が良くなったと思います。


ですがこの社会の変貌の様子を見て来た私としては、昔の日本人のような清く正しい心を持った人は、ぐんぐん影を潜めて行ったように思います。そして、拝金主義と保守主義が入り混じったようななんとも言えない人種が中枢を担うこととなりました。


その人種は、自分たちの保身を第一に考え、社会をより良くするということにはあまり重きを置きませんでした。そのおかげで社会から躍動感のようなものが消え、家柄や既得権益がなによりもものをいう社会を作り上げました。


一度道を踏み外した人間は、もう日の目を見ることが出来ない。そのおかげで社会にはどんどん閉塞感が増して行きました。仕事も都合のいいようにこき使われてしまい、将来への展望なんてのはまったく持つことが出来なくなりました。


つまり『持っている側』が『持たざる側』の心情のようなものをまったく理解していない、あるいは理解しようとしない、その傾向がいかんともしがたいぐらいにまで増大していしまった。それがいまの状況です。


この状況から、セミリタイヤという、言わば自己の回りに防護壁を張って、外界を遮断するような生き方を選択する人種が増えて来ました。自分の生活費さえなんとかなれば、後は社会に煩わされることなく生きていきたい、そんな生き方を標榜する人たちです。


この人たちは、生活費をちゃんと賄うぐらいの資産を築き上げた人たちです。言わばキチンと自分たちの生活をコントロールすることが出来ている、クレバーな人種だと思います。


そして言葉は悪いですが、こんなやさぐれた社会で、働くという選択肢か選ぶことが出来ない人たち、そのような人たちしか今後は雇うことが出来ない、そんな絶望的な状況になっていると思います。


自分たちが有能というつもりはまったく無いですが、少なくともその日暮らし的な人たちから較べれば、自己管理能力的には上だと思います。だがもう働くという行為に、希望を抱くことが出来なくなっているので、能動的には仕事を探さないことと思います。


社会はその愚かさ故に、この人たちを戦力としてほぼ失ってしまいました。

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