会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

非情であることが上司の条件と勘違いしているバカ

こんにちは。


世のなかどこも人手不足だなんて騒いでいます。


そりゃ当たり前だろう、と私は思います。これだけ人を無慈悲にこき使って来たのですから。もう働く気なんて欠片もない、そう考える人が出て来てもおかしくありません。


かく言う私もそうです。休職してから1年6ヵ月経ちますが、『罪悪感』なんてものはひと欠片もありません。


毎日なにをしようか、そう考えて秘かに楽しんでいます。私の場合は幸い楽しみが多岐に渡るので、やることが無くて困る、なんてことはありません。


今日も雨になるとの予報だったのですが、もしかしたらそんなに降らないかも知れないと思って、山登りの準備をして向かいました。結局雨らしい雨は降らず、そこら辺をブラブラしてお昼を取って帰って来ました。


そしてその帰りに携帯ショップへ向かって、料金プランの見直しをしました。そして釣具屋へ寄って帰って来た次第です。


もし雨になったらなったで、向かった先でクルマのなかで寝ようと思っていました。窓の外の景色を眺めながら雨だれの音を聞き、物思いに耽りながら寝てしまおう、という寸法です。50過ぎのオジサンにしてはいささかロマンティック過ぎますが、それが性分なので許して下さい、という感じです。まあしませんでしたが。


このように、もう労働に向かおうとする心のサーモスタットが、空焚きによる焼き付きで壊れてしまった状態なのです(例えが分かり辛いですね)。その原因は上司のあこぎな采配にあります。人を人とも思わず酷使し、ちょっとしたゆとりも許さない、そんな非情さが、部下の心のサーモスタットを焼き切ってしまったのです。


そして、そんな状態をみすみす野放しにしていたその上の経営陣。コイツらは言ってみれば非情さが上層部の条件と勘違いしているバカです。私ぐらいの歳になれば、もう動けないだろうとタカを括って、労働条件を更に厳しくし、やめたらやめたでしょうがない、ぐらいに思っていたと思います。そして欠員が出たらもっと若い人間を雇えばいいじゃないか、その方が人件費が浮くし、という計算もあったと思います。


ですが残念ながら、そういう手捌きをする会社というのは人は集まりません。仕事を探す側にもそれぐらいの防衛網はあるのです。あそこはかなりヤバいという噂が立てば、まともな人間は寄り付かないのは明白です。


そして、私が以前いた会社が特別だったのではなく、大方の会社がそんな過酷な状況にあったのでは?というのが最近思うことです。働く側が、軒並み心を焼き切ってしまったのが、いまの惨状に繋がっているのではないか?というのが私の推測です。


この現状はしばらくは好転しないことと思います。雇用側が幾ら条件を上げたって、心のスイッチが切れているのですから。


時間が経って、明らかに社会がどうにもならなくなった時、雇用側がその非情さを捨て去ることが出来るかどうかが焦点になると思います。

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