会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

王侯の楽しみ

こんにちは。


セミリタイヤ民にとって、リタイヤ後の資産を形成して置くのはとても大事なことです。


それによって、リタイヤ後の生活の質が左右されてしまいます。悠々自適でセミリタイヤ生活を送れるのと、資産枯渇に怯えながらギリギリの生活を送るのとでは、精神的な安定度合が違うでしょう。


私が以前所属していたブログ村の『セミリタイヤ』カテゴリでは、その手の話題が多かったように思えます。要は安心して送れる資産を築き、その複利で生活出来るぐらいの資産を持ってこそ一人前、というような論調です。


ですがもう一方では、若くして最低限の資産でセミリタイヤする、といった方も見受けられます。例を上げれば1000万円貯めて、後はバイトなどをして食い繋ぐという方法です。


前者の充分な資産を貯めて、その複利で生活出来る基盤を作った人の一部は、往々にして後者をバカにしていたと思います。曰く、仕事がイヤでリタイヤしたのに、結局は仕事に就いているじゃないか、それならもうすこし我慢して、仕事に就く必要がないぐらいまで資産を貯めれば良かった、などという論調です。


ですが彼らは間違っていると思います。仕事に就く必要がないぐらいまで資産を貯めれば良かった、などというのは、後から言える言葉です。もっとわかりやすく言えば、そこまで我慢出来る人は、きっと最後まで会社に居ることが出来たんじゃないか、ということです。


そういう人たちは、会社の人間関係がどうにもイヤで逃げ出したいとか、このままでは鬱になってしまう、といった切迫したものを抱えている人間の心情を、本心では理解していないということになります。それと自分たちがそこまでの基盤を築いたという優越感を、暗に誇りたい、という面もあると思います。だからカツカツの生活をしている若い人を、嘆くフリをして晒したい、ということですね。


私からいえばどちらも五十歩百歩です。資産は持ち過ぎてもいけないし、足りなさ過ぎてもいけません。持ち過ぎるのは結局は圧倒的な社会的勝者に繋がりますし、足りなさ過ぎても結局は仕事という社会の歯車役に甘んじてしまう。


それなら幾らお金を稼げばいいんだ?という話になってしまいますが、そこは人それぞれなので一概には言えません。その人にとっての適性値、というあいまいな表現でしか言えないことです。


これでは皆さんを煙に巻いたような形になってしまうので、ひとつの考え方を提示したいと思います。


私が若い頃に会社を辞め、しばらく無職でいたときのことです。大体の人は、家で大人しくしていると思うのですが、私は釣りに出掛けていました。


それも一日4500円の入場料を取る有料の管理釣り場で、普通に釣りをしていました。このままでは、貯金もどんどん無くなっていくな、となんとなくはわかっているのですが、その背徳感もある種のスパイスとなって、不思議な感覚のなかにいました。


お金は着実に目減りして行ってるのに、なんだか心地いいのです。世間の人間は小金を貯めようと会社に通い、必死になって働いているのに(実際にその管理釣り場からは通勤の車がよく見えました)、自分はそこで自分の世界に入り込み、忘我の境地にさえ到達している。


これこそが、『王侯の楽しみ』に近い心境なんじゃないか、そう思えて来ました。


昔の王侯や貴族といった人たちは、一般庶民が働いた稼ぎを収入源として、優雅な生活をしていたと思います。そこでは幾ら稼ぐといった概念はなく、特権階級の人たちはあくまでも優雅に暮らし、一般庶民は彼らに貢ぐためにひたすら働いていたと思います。


現代ではそのような階級制度は無くなりましたが、一般庶民がひたすら働くといった構図は変わりません。


つまり現代の人たちは、『盲目的に働いている』ということになります。それは愚かなラットレースに過ぎません。終いにはその目的さえも曖昧になってしまいます。


その様子を尻目に、自分のやりたいことをやり、資産の目減りも気にせずにその世界を堪能する。これこそが王侯の楽しみ、と言えるんじゃないか。例えヤセ我慢だとしてもです。


これが私が失職中に辿り着いた見解のひとつです。要はキチンと自分が楽しいと思えることに時間とお金を注ぎ込めること、それが大事だと思うのです。


セミリタイヤ資産が充分かどうかというのは、悪しきプライドに囚われた一般庶民の思い込みに過ぎません。

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