会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

大型商業施設ばかり出来ている現状

こんにちは、curiosです。


所用で何処かへ向かう時など、その街の中心部を走ったりするのですが、大型商業施設のあまりの多さに呆れてしまいます。


〇〇モール、ショッピングモール、アウトレットなど、さっき通り過ぎたと思ったらまた別のモールが現れたりして、なんとなくアメリカの郊外の景色を見ているようです。


そんな光景を見ていて心躍るかというと、すくなくとも私は躍りません。


あの四角い建物群が、それほど人を惹き付けるに値するものなのでしょうか?


休みの日はショッピングモールに行って映画を見たり、気になっていたモノを買って、お昼はフードコートで流行りのメニューを食べ、帰りは何日分かの食料品を買い込んで帰途に着く。


これだけの行程なので、まあ満足はするでしょう。でもショッピングモールなんてひとつ行けば何処も同じです。入っているテナントが違うなんて言うかも知れませんが、それでも二つか三つあればほぼ用途的には事足りるはずです。それが乱立といってもいいぐらいに建ってしまっている。既にショッピングモールは飽和状態です。


実際にああいう巨大資本の集約型店舗を造る目的は、大きいパイを持つ者が勝つ、という資本主義の原理を、なぞっているからに過ぎません。結局、資本が大きいほど物を安く売れるし、安売り合戦の持久戦にも耐えられる。


そう考えると、ああいう大型商業施設を使うということは、我々消費者側の首を自ら締めているということに繋がるかも知れません。大資本の無慈悲なやり口が、その地域の商店街などにとどめを刺してしまう。こちら側は安くて便利になった、なんて喜ぶかもしれませんが、それだけ社会の包容力が無くなって来ている、ということなのです。昔ながらの和菓子屋や、汚いラーメン屋など、いろんな店があって、町の光景に、ひと花添えていると思うのですが、それが皆な四角くて巨大なだけの、〇〇モールなんて似たり寄ったりの施設に、壊滅させられてしまうのです。


以前に見た映画に、印象的なシーンがありました。アメリカの映画ですが、他の学校から転校して来た若者が、地元の若者に、退屈で死にそうだ、この街にはなにか面白いものはないのか?と尋ねます。


その若者は、この街は退屈なのさ、とその転校生に諭しますが、一転、この街にも色々ある、と意味ありげにいいます。


その転校生は、暗にドラッグを求めているのですが、冗談で、『ショッピングモールなんていうんじゃないぞ!』とおどけ、笑い合います。


これが私がショッピングモールになんとなく抱いている不毛な感じを、よく表しているんじゃいかと思ったのですが、この微妙なニュアンスが伝わるでしょうか?


ショッピングモールを使えば使うほど、荒廃していく街の姿が脳裏に浮かびやすくなります。

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