会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

人は生まれて来ただけで充分なのに

こんにちは、curiosです。


私は街で、ちょっと一般の人とは違う雰囲気を放つ人をよく見てしまいます。そういう人は、大体駅前通りや旧市街地を歩いていることが多く、休日などに行けばリュックをしょって歩いていたり、保護者の方に連れられて歩いていることがあったりするので、すぐわかります。


これは差別になるのであまり直接的には言えませんが、いわゆる知的障害や発育障害を持って生まれて来た人たちです。


そういう人たちがご家族に連れられて、休日に何処かの観光地に行ったり、美味しいものを食べに食堂に行ったりしているのを見ると、なんとなくじわっと涙が滲んで来ます。


これは憐みとか、そんなうぬぼれ的な感情からではなく、自分もそういう人たちから、そう遠くない道を歩んで来たと思うからです。


人というのは普通に生まれて来たというのが本当に奇跡だと思います。ちょっとした染色体の異常や、化学物質の影響により、身体的に障害を持って生まれて来たり、知能の発達がままならなかったりする。その僅かな違いによって、正常に育つか、なんらかの異常と共に育つかが決まってしまう。


自分も一応五体満足に生まれて来ることが出来ました。ですが成長して行くにつれ、心が次第に病んで来てしまった。ですが社会生活を営むことが出来ないほどではなかったので、そのまま社会人として会社組織に入ってしまった。そこからは罵倒されたり、小馬鹿にされたりの繰り返しでした。世間は恐ろしい所だという認識が出来上がりました。


普通に会社に勤め、給料を貰い生活していく、ということが、これほど困難なものとは知りませんでした。難攻不落の要塞に攻め入ろうとしているわけではなく、ただ単に生活の糧を得ようとしているだけなのにです。


そのような日々を生きて来て、かなりのダメージを負いました。そして自分は、もう交友関係では一切の心を閉ざすというスタンスにて、この社会を生き抜く指針が出来上がりました。
これはある意味では心に障害を負ったのと一緒です。感情が死んだ、ということです。


そう思って街を眺めると、本当に自分はあの人たちとなんら変わらない、ギリギリの線を生きているんだなと改めて思いました。ちょっと道を踏み外せば、たちまち奈落の底に落ちてしまうというような。


この社会は、文明が発達して便利になったと言いますが、総体としてはなにも変わらないということが出来ると思います。その中で、何故そんなに追い込まれなければいけないんだ、という自問を繰り返してここまで来てしまったのが私の生き方です。


本当に、五体満足で生まれて来れたというだけで充分なのに、それを更に追い込もうとする地獄の所業、もう自分はその流れに乗りたくありません。


セミリタイヤは私の寿命を延ばすための延命措置です。

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