会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

人間に生まれて来た時点で勝ち組、の筈なのに。

こんにちは、curiosです。


人生の過程に於いて様々なことがありますが、私は人間に生まれて来た時点で勝ち組、だと思っています。


前にスピリチュアル系の番組で、『すべての動物は人間になりたがっている』という話を聞きました。野生の鎖から外れ、住み家や食料を自給出来るようになった人間という存在は、やはり生き物のなかでも最終形態、と呼ぶに相応しい存在だと思います。


その人間になることが出来たのに、何故か人は人であることに悩み、疑問を抱いたりします。人間に生まれて来た時点で勝ち組の筈なのに、その人間という容れ物をみすみす放棄したりする輩も現れる(つまり自〇です)。


これはなんと勿体ないことでしょう。すべての動物がなりたがっている人間という存在を、自ら放棄してしまった。その最期の瞬間の後悔は如何ばかりのものかと思います。


死を選ばざるを得なかったという無念さ。なんで食べるものも住む所も困らない存在になったのに、人はそれを選択してしまうのか。それはこの社会の成り立ちに原因があると思います。


様々な主義主張や宗教が横溢する社会。それをそういう場合もある、と分かり合える人ならまだいいのですが、決して他の主義主張を認めないケースもあります。


そうしてその中には、自分と違う思想を持っている人を追い込み、弾圧しようとする人までいます。世の中には色んな宗教や思想がある、というだけのことなのに、それを断固認めようとしない人たちです。


こういう諍いを無くすにはどうしたらいいか。それはまず国家という概念を無くすことです。国家という枠があることで世の中に主義や思想が生まれ、それに沿って戦争も起きる。


また宗教も同様です。宗教の方がこういうことに対する許容度は低いと思います。だから一度でも異なる宗教に対して攻撃を仕掛けたり、問題を起こした宗派に対しては、その宗教団体としての資格をはく奪してしまう。


こうすることで社会全体が公正になり、富める者や貧しい者という格差も是正される。ただ単に一人の人間として歩んで行くことに力を注ぐことが出来る。


それが実現すれば(私にとって)どんなに素晴らしいことかと思います。人間はただ生きて行くということにもそれなりの求道性があると思うのです。


セミリタイヤという道に足を踏み入れたことは、その求道者の道へ足を踏み入れたということになるかも知れません。


人間に生まれて来た時点で勝ち組、という思想を残りの人生で体現して行ければと思います。

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