会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

身も心も疲弊させる社会

こんにちは。


一線から退いてみると、この社会というのは実に理不尽で、労働者を疲弊させるために出来ているということがわかります。


そしてわかったような口を聞く御仁によると、その理不尽さを乗り越えて初めて見えるものがあるのだそうです。


私は残念ながら乗り越えられませんでした。理不尽な扱いを度々受けて、それを笑って済ませられるような度量の大きさがなかったからです。


そういう時の判断というのはあくまでも個人の感情に依るものです。その人なりに一生懸命我慢して、耐えられる所まで必死で耐えた結果、爆発してしまうということがあると思います。


そういう理不尽さに耐えられるだけの度量を持っている人というのは、そういった時の感情の処理をどのように行っているのでしょう?笑って済ませられるというのなら、それは天性のものです。


ですが、家に帰ってからふとその時のことを思い出し、血が逆流するほどの悔しさに襲われたことは無いのでしょうか?朝までうまく眠れず、次の日に朦朧として出勤する、といったことは無かったのでしょうか?


私はしばしばありました。そうしてその感情を当人に叩き付けたこともあります。


それでスッキリとするということは先ずなく、嫌な感情を引き摺ったまま幾日かを過ごします。


この世の中というのはなんて嫌なとこだろう、そういう怨念のようなものから逃れることは出来ませんでした。


そこを乗り越えられる人というのは、きっと体育会系の人なんだろうと思います。先輩からの理不尽な仕打ちを当然のように受け、それをかわす術のようなものを自然と身に付けたような人。


日本の社会というのはとかく体育会系の人を持ち上げる、或いは持て囃すような風潮があると思います。会社組織でも、体育会系の人は無条件にリーダーの素質を持っていると見做される。


つまり、文系の資質を持ったまま会社というところに入った私は、半ば敗者になることを強制されたようなものだったということが言えると思います。


なんという悲劇でしょう。始まりからすでに捨てゲームだったとは。


ですがその悲劇をこれから喜劇に変えるということも出来るのです。


多くのお笑い芸人がやっている、自分の体験談みたいなものを自虐のネタにするような行為、あれは絶対に頭が良くないと出来ません。


また多くの文学者が、自身の挫折や葛藤を題材に小説を書いています。日本の文学というのは、そういった内省型の人が活躍する場でもあったと思います。


どうなるかわかりませんが、残された時間でそのような逆転劇が出来れば、私もすこしはこの社会に対してしてやったと思うことが出来るのですが。

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