会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

楽をしたいと思うのは当然の理

週明けの月曜日は昨日からの雨が残り、家でぼんやりしています。


心療内科から傷病手当申請書が出来たと連絡があり、それを取りに行って、ついでに自動車税を払ってしまいます。クルマと原付バイクで、占めて36500円です。


それを終えて家に戻り、やや明るくなって来た外を眺めながら雨が上がったら身体を動かしに行って来ようか、と考えています。


恐らく、定職を持っている方々なら休日明けの月曜ということで、憂鬱を抱えながら会社に向かったことと思います。私も経験があるのでその憂鬱感は想像が付きます。雨が降っていようものなら仕事もきっと消化作業のようなものを押し付けられるので、余計に憂鬱でした。


それがいまは無い、そう思うだけで段違いに気分が軽くなります。帰りにホームセンターに寄って、資材コーナーに立ち寄り、なにか役に立つものはないか、と散策しているだけで幸せな気分になるのです。


根っからの怠け者、というのは否定しません。もともと仕事は嫌いですし、どうにか楽が出来ないか、ということがいままでの人生に於ける重要なテーマだったと思います。


ですが、出来れば苦労はしたくない(=楽をしたい)というのは生き物にとって当たり前の選択肢だったと思うのです。獲物を捕らえるのだって、ピョンピョン逃げ回る活きのいい個体よりも、怪我をして群れからはぐれている個体を狙うに決まっています。なんでわざわざ苦労をして、活きのいい個体を追い掛けなければならないのか?


そういうことに対する回答が、これまでの日本では根性論というもので片付けられて来ました。人間は楽な方に流れてしまう生き物だから、自分を律しなければいけない、そういう教えが会社組織などでは定説でした。


ですがその根性論も、どうやら雲行きが怪しくなって来たようです。楽を出来るところでわざわざ困難な方法を選ぶ理由がないからです。また困難な仕事を下の立場の人間に押し付け、自分たちは高みの見物という構図を、平然と致すようになった。それは小泉総理が派遣法を改正したあたりから目立つようになって来たと思います。この社会に見えない階層のようなものを作り上げてしまった。


正当な理由での努力ならば、人は受け入れないこともないと思います。それが目に見える形での成果に繋がるものならば、むしろ進んでそれをやろうという気にもなります。ですが延々と先が見えない状況での努力というのは、人間というのはバカではありませんから疑問を感じると思います。


それが正社員という立場であったならまだ希望があると思って堪えることも出来たと思うのですが、先の見えない派遣社員という立場となると、目に見える形で反映されないことになり、余計に徒労感を募らせることになると思います。


そんな状況がもう20年余も続いているのが、この日本経済停滞の最大の要因だと思うのです。


幾ら目先の賃金を上げたって、この展望のなさを打開出来ない限り、働き手が希望を持って社会に復帰することはありません。

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