会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

会社に勤めてこそ一人前?

こんにちは。


会社生活から一年近く離れていますが、取り敢えず自分のペースで生活するということに重点を置いています。


この間焦りが無かったか、というと、まったくありません。残念ながら私にはもうそういう感覚は、残されていないようです。


若い頃はすこしはありました。まだこの先長いので、何処かの会社組織に所属して置かないと、取り残されてしまう、そんな焦りがありましたね。だからやたらと目に付いた会社に応募して、そして打ち砕かれていました。どうやら私には会社生活そのものが向いていないんじゃないか、そう思うようになったのは、50を過ぎてからです。


でも世のなかの大多数の人は会社という所に所属し、なんやかんや言いながらも、定年まで勤め上げている。その根性は凄い、と敬服しました。そして社会も、何処かしらの会社に勤めて初めて一人前、という空気感を醸成している。


だから何処かの会社に履歴書を出すたび、私の穴ぼこだらけの経歴を書くのが、恥ずかしくもありました。間違いなくこれは私が辿って来た道筋で、これを見れば自分の堪え性のなさのようなものが、露呈してしまう。そしてそれは採用時の選考に、大きく影響するはずです。


ですがこの歳になってわかったことがあります。それは、会社に勤めて一人前と思い込むのは、会社組織にしか選択肢がない人たちの、苦肉の策だということです。


国やその取り巻き企業の連中は、会社組織の頂点的な存在です。それらの人々は、一般庶民が忠実に会社組織で働くことこそが、自分たちの安寧に繋がるというのをわかっています。その為に、厚生年金などの社会保障をチラつかせ、会社組織に定着するよう仕向けます。会社に定着するということは、勝ち馬に乗るということだ、と思い込ませるのです。


多くの人が、そのような思い込みに乗せられ、盲信的に、会社に勤めてこそ一人前、という空気感を醸成します。多分選択肢はそれだけではないはずなのに、一般庶民はそういうものだ、という強迫観念みたいなものを押し付けようとする。そしてそれは国にとって、実に都合のいいことです。働き方はそれだけではない、というのを敢えて声高に主張しない。


これが、私が解明した社会のカラクリの一部です。そのカラクリをこの歳になってわかった、というのが情けないですが、まあわかっただけマシだと思います。ですからこのような場で、その実態みたいなものを暴露することが出来る。


私が最後の会社を辞めて、職場の人々は、きっと哀れなヤツと思い込んでいると思いますが、私は逆に彼らこそが哀れだと思います。それは彼らが意志を持たない、或いは敢えて持とうとしない『クグツ』だからです。


※クグツ=傀儡
1 あやつり人形。くぐつ。でく。


2 自分の意志や主義を表さず、他人の言いなりに動いて利用されている者。でくの坊。

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