会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

心の貧しい人たち

こんにちは。


私は生来の臆病な気質と甲斐性のなさが祟り、まともな社会生活を送ることが出来ませんでしたが、ようやくこの歳まで来ることは出来ました。


ただ会社を幾つも変わっているので、給料は上がらず、ずっと同じ会社にいる人とは手取りや年金支給額の違いで天と地の差があります。


そんな私ですので、必然的にお金の使い方についてせせこましくなるのはやむを得ないところだと思います。まだ完全に安泰というところまでは行かないですし、これからの社会情勢がどうなるかわかりませんから。


ただ安定企業に定年まで勤めて、家屋敷もちゃんと持っている人のなかにも、心の貧しい人というのはいます。そういう人の姿を見ると、それはそれで不幸なんだなと思います。


私の叔父はJR(旧国鉄)を定年まで勤め、また金銭的にもしっかりしていたので、いまでは相当な額の資産を築き上げているはずです。また息子もそれに倣って、安定企業(地元の役場)に就職しているので、そういった意味では勝ち組といえるのでしょう。


ですが家庭内の事情からすると、誰もが羨むとはいえないものがあります。


その叔父の性格があまりにもキツく、家に誰も寄り付かないのです。人の顔を見るなり悪態を付き、言わなくてもいい小言を言う。こちらはそんな要件では訪れていないので、憮然としたままその場を後にすることになります。


その叔父の妻(私の母の妹)は癌で亡くなり、いまでは息子と二人暮らしです。息子ももう40過ぎになるのですが、家がそんななので縁談の話も聞こえて来ません。


幾ら家にはお金が唸っていたとしても、それを有効活用することが出来ない。お金が行き場を失っているのです。


いつかその家に届け物をしにいった時、その叔父と息子がたまたま不在な時がありました。しょうがないので玄関に荷物を置き、帰ろうとしたとき、二人が帰って来ました。聞けばラーメン屋に行って来たそうです。


あまり関わりたくなかったので速やかにその場を後にしましたが、なんだか虚しくなりました。家にはお金が唸っているのに、人を寄せ付けない性格のため、そのお金を有効活用することが出来ない。そして妻は先立ち、息子と二人でラーメン屋に行く。


世の中には様々な形で人生訓のようなものを与えてくれる機会があります。お金に困るよりも、心が貧しくなってしまったらはるかに不幸だと、その姿は語っているような気がしました。

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