会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

四十九日法要

こんにちは。


本日父の四十九日法要が終わりました。


関東でも有数の霊園が地元にあり、そこに父の遺骨を納めて来ました。


そこの霊園はかなりの規模で、売店やレストランなどが並び、来園客が利用しています。


そこで感じたのは、『ここも金か』、ということでした。


不謹慎ですが、私にはそのように感じました。管理事務所で法要の手続きをした時も、従業員はとてもシステマチックに動いています。ですが却ってその無駄のない動きが『金』ということを連想させました。


多くの来客を捌けば捌くほど、『金』に繋がります。本人たちは意識していないにしても、その目的は供養というよりは金の方にある、と感じてしまいました。


お坊さんに読経をして貰っているときも、そのお坊さんの後ろ姿を見て、こんなことでお金を貰えていいなあ、とずっと思っていました。また自分は騙されないぞ、とも。


抹香臭い部屋のなかで考えていたのは、なんで仏の供養のための場所が、こんなにも『金』のことを意識させるのだろう、ということでした。なんででしょうね?


多くの人がなんの疑問も持たず、喪服を着て、霊園に来て、それなりのお金を落として、供養だなどと言っています。本来宗教というのは、ここまで拝金主義では無かったはずです。


人の魂を親族で見送って、その亡骸を埋葬する。ただそれだけのことだったはずなのに、いつの間にかそこに少なからざる金額のお金が動くようになってしまった。


そして多くの人がそのことになんの疑問も持たずに、定められた儀式のもと、法要を行っています。多くの人が、”いいカモ”なわけです。


私の父は少々世間の常識からかけ離れた生き方をした人でした。その父にお願いしたのは、どうぞこのク〇みたいな儀式の洪水に飲み込まれないよう、導いといて下さい、ということでした。

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