会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

生きることの意味・最終形(其の一)

こんにちは。


散々ここで上げて来た題材ですが、なんとなく輪郭が掴めて来たので、再度この問題について考えてみたいと思います。


まず、何故生きるのか、なんてことを考えるのは、間違いなく人間だけだということです。文字を持ち、言葉を使う人間が、その先進性と引き替えに、背負い込んだ命題ということになります。


それに対して、動物はそんなことを考えません。彼らは食料を食べ、生きて行くということにのみ注力します。


動物の世界では、食料は自力で手に入れるものであり、その手に入れること自体が毎日のイベントでもあります。要するに、彼らは『生きる』という行為そのものに全力を傾けるのです。


一方、人間はどうかというと、食料を備蓄出来るようになりました。つまり今日明日の食べ物をどうしようか、なんてことに時間を割かなくて良くなったわけです。これはすべての生き物のなかで、人間だけが到達した領域です。


そしてここからが、人間が『生きることの意味』を考え始めた分岐点なわけです。要するに、今日の獲物を追って一日中駆け回ることが無くなったから、人間は、『何で生きるんだろう?』なんてことを考え始めた。つまりこの命題は、余剰の産物なわけです。


そして、その命題に、多くの哲学者や文学者が挑み、様々な議論を繰り広げて来た。でも明確な答えというものは、未だ出ていない気がします。残念ながら、出る筈もありません。何故なら、すべては人間が日々の食べ物に、困らなくなったからという、ただそれだけのことだからです。


ですがこの問題は誰もが、思春期の頃から思い煩う問題だと思います。そうして必要以上に悩み、その後の生き方にも波及してしまう事柄だと思います(私のように)。


その問題を解決する糸口は、ズバリ昨今ブームになっているサバイバル活動です。自然のなかで生活したり、幾日かを山に籠って自炊したりすることによって、太古の記憶のなかにあった『生きることの為に生活する』、という原初の目的が蘇って来ることでしょう。そして社会生活で打ち砕かれた記憶と共に、行き過ぎた文明の愚かさが見えてくると思います。


そして、生きるのに必要なものは本当に僅かだ、というのが実感され、現代の消費型資本主義生活からの真の離脱さえ可能となるのです。


これは私にとってもとてつもない発見になったと思います(続く)。

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