会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

50を過ぎたら楽になるか?

こんにちは、curiosです。


私は今年で55歳です。そしてこのまま行けば初めて療養で一年間過ごすことになります。


病状の方は一進一退という所で、先日心療内科に診察を受けに行った際、先生にどうですか?と聞かれ、


『秋になってなんだか落ちてしまったみたいです。ウォーキングもやる気になりません』


と正直に言いました。先月まではやる気が出ていたみたいなので、季節の変わり目の一時的な不調ですね、と結論されました。決して責めるようなことは言わず、病状を見守ってくれているという感じがありがたかったです。


55歳になって初めてこんな状況に陥り、人の行く末なんて誰にもわからない、と思いました。よく40を過ぎれば他人の考えに惑わされなくなる、とか、50を過ぎれば人生が楽になる、なんて言いますが、それは誰かがそう言ってみた、というだけのことで、惑わされたり、迷ったりする人の方が圧倒的なんじゃないでしょうか?


でもこの歳になって迷わなくなったことがひとつだけあります。それは『死生観』です。またダークでスピリチュアルな話になるので、興味の無い方は飛ばして頂ければ幸いです。


私は若い頃、死のことばかり考えていました。なんで人間は生きるんだろう?そして死ななければならないのだろう?それは恐怖ですらありました。まだ人生は始まったばかりだというのに、頭のなかは、人はいつかは死ぬんだという観念で一杯になっていました。


そうしてどうしようもなく厭世的になり、社会生活にも支障を来していました。どうせ死ぬんだろう、という諦念のようなものが先に出てしまって、その年齢相応の振舞いをすることが出来なかった。何処へ行ってもなんかクライ奴と言われ、その煽りを受けてますます卑屈になって行きました。


ですがそれでも社会生活を長く続けていると、ある程度の順応性というのは出て来ました。表面的には周りの人と合わせられるようになり、波風が出来るだけ立たないように振舞うことも出来るようになった。結局、人生というのは長距離走なので、そんなに気張っても最後まで持たない、というのが分かって来たのです。


そしていつの間にか、死への恐怖というのも薄らいでいました。そして悩んだ末の結論として、『全ての生命は死ぬが、その身体は循環し、新しい生命となって再生する』という当たり前の事実を受け入れることとなりました。


死を完全には忘れ去るまでには至りませんでしたが、過剰なまでの恐怖は無くなりました。


キャンプなどに行って、自然のなかに身を置くと、その生命の死から再生までの循環が身近に感じられます。秋に枯れる草は、その身に穂を蓄え、新しい季節の到来を待ちます。なんの疑問もなく、そのサイクルを繰り返します。


人間も、そのサイクルを遂行している同じ生命体なのです。だからいたずらに死を恐れる必要はないということです。そのことに気が付くまで、えらい時間が掛かってしまいましたが(笑)。


だから自分は年を重ねることがまったく苦にはなりません。むしろその事実を知って、年を取るのが嬉しくなりました。自分は確実に、悟りの境地のようなものに向かっているということです。


50を過ぎたら楽になる、とは言えないけど、いつか確実に楽になれる時が来る、ということは言えると思います。

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