会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

惨めな思いを経験すること

こんにちは、curiosです。


私は子供の頃、どちらかというと貧乏な家庭でした。遊ぶといっても外で適当に何かを見つけて遊んでいるような感じで、おかげで川の生き物に詳しくなったり、森で昆虫を探して取ったり、あと食べられるようなものを探したり、言わば自然を遊び場としていたような子供時代でした。


なにかを買って貰えるというのも、クリスマスや進学した時など、一年のうち数回に限られました。列車のジオラマなど派手なおもちゃが欲しかったのですが、買って貰えるのはそれらから数段階落ちたものばかりで、なんとなくですが惨めな思いを感じていました。


当時はオーディオは大きなものが流行りで、友達の家にある立派なオーディオシステムを見ては、羨ましかった記憶があります。自分の家にあるのは貧相なラジカセひとつだけで、それでカセットで好きな音楽を聴いていました。


総じて子供の頃は、満たされないものを感じていたと思います。言わば外で好き勝手にひとり遊んでいるような状態でした。遊び道具と言えばそこら辺で見つけた棒切れのようなものです。


ですがいま考えると、そういう経験が、言ってみればこの社会に対する耐性のようなものを付けてくれたと思っています。この社会は華やかなことばかりではありません。うらぶれたり、貧相な場面に遭遇した時に、それも社会の一面だ、と冷静に対処出来る視点のようなものを手に入れることが出来たと思っています。


大人になって、ある程度お金が自由に使えるようになっても、一回冷静になって、物事を考えることが出来たと思います。欲しいと思ったものをただ手に入れるというのではなく、もう少し違う角度から観察してみて、そんなに要らないものかも、という結論を出したり。言ってみれば、お金に対する慎重な姿勢が身に着いたということかも知れません。


よくTVなんかで、親が子供のスポーツの英才教育のようなものに夢中になっているシーンがありますね。ゴルフなんかはもう大人顔負けの装備で、子供を見るとなんとなく『こいつ勘違いしているな』という表情をしています。


ああいった、与えられるものはすべて与えるみたいな教育をしていると、いざそれが頓挫した時の軌道修正がなかなか出来ないと思います。スノボやスケボの選手に、不遜な態度の人が多いのも、そうやって勘違いさせたまま成長させてしまった、ということです。その代償は大人になってからのしっぺ返しとなります。或いは変なクスリに手を出して、永久追放となるか。


ジュニアのスポーツの育成という観点からいえば、子供の頃からそういう環境を用意してあげるというのは理に叶ったことだと思います。でもその一方で、謙虚にそれに取り組ませるという姿勢を徹底しないと、なんとなく勘違いした選手が出来上がってしまうといった結果になりかねません。


まずは昔のように、外にあるもので適当に遊んで置かせたり、棒切れのようなものを持たせておく教育も、必要なんじゃないかと思います。惨めな思いを一度は経験するのも、社会に出て行くための訓練となります。

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