会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

この世は生きる価値があるか?

よく、『人の不幸は密の味』と言います。


人がなにか悪いことに遭遇して、悩んだり、苦しんだりしている様子を、秘かに楽しんでいる様を言います。


多くの人が心当たりがあると思います。表面上はとても沈痛な面持ちをして、「災難だったねー、」とか、「よりによってこんなことに、」なんて話を合わせてみせますが、内心はほくそ笑んだりしています。


そしてこれは、残念ながら多くの人に存在している傾向です。TVのワイドショーや、週刊誌のゴシップ記事なんかが未だに無くならないのは、そういうものを人が求めているからです。


なんで人は他人の不幸が蜜の味なのか。それは大方の人が幸福ではないからです。本当に幸福ならば人は他人の幸不幸なんて、気にしないと思います。そして、不幸な人がもしいれば、心から気の毒に思い、なんらかの手を差し伸べることと思います。


現代の大多数の人は不幸なので、他人に降りかかった災難を、ひとまず吟味し、その味わいを確かめます。そうしてそんなことが自分に起きなくて良かった、とホッと胸を撫で下ろします。


それからようやく、その人を気遣い、災難だったねー、などと同情します。ですがそこには微かな可笑しみの匂いがあり、よく観察すると、表情が生き生きしているのがわかります。まあよっぽどのことがない限り、口元が緩んだりはしていませんが。


人間なんてこんなものです。私も嫌というほどこういう瞬間を味わって来ました。


私がとあるトラブルでひとつの職場を去り、別の部署に異動した時、以前の同僚は、別の部署で働く私のことを薄笑いを浮かべて見詰めていました。その表情には、憐れな奴だ、という侮辱する感がありました。


そして人間というのは所詮こんなものだ、という認識が出来上がりました。まあいままで受けて来た災難からすれば、こんなことは取るに足らないことです。それよりも、ひとつの社会の姿を提示してくれた存在として、感謝するべきかも知れません。


社会、ひいては人間というものに希望を持ってはいけない、期待してはいけない、という社会の鉄則に、遅ればせながら気付くことが出来ました。


それならこんな世の中に生きる価値はあるのでしょうか?誰も信じることが出来ず、心を開くことの出来ないクソみたいな世界に、生きる価値はあるのでしょうか?


ある作家は、絶望こそが希望の一形式だという仮説を立てました。また有名な大家は、苦痛や屈辱感はやがてヒリヒリとした快楽に変わる、と説きました。


皆なこの問題には、苦労させられていたようです。

×

非ログインユーザーとして返信する