会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

人生はク〇、或いは軽めの〇獄

こんにちは、curiosです。


私の家はさしたる家柄も無く、平均よりやや下の中流家庭ということで、とくに厳格なしつけというものも無く、厳しい家訓などとも無縁でした。


受験勉強なども無理矢理やらされたという記憶は無く、高校を何処にするのか、というときに、親としては進学校に行って貰いたかったらしく、すこし小言を言われた程度です。


しかし社会に出てからの苦難というのは想像を遥かに超えたもので、この世の中の人はこういう艱難辛苦を皆な経験してるのか、と勘繰りたくなるものでした。これじゃまるで生き〇獄じゃないか。


そうしてある程度経ってから、あきらめの感情と共に、ひとつの答えが導き出されました。


それがこの表題の、『人生はク〇、或いは軽めの〇獄』だということです。


結局、これを最初から教えて貰うか、自分で探し当てるか、の違いだということです。


最初から教えて貰える人は、家がしっかりとその教訓を、厳しく教え込んでおり、またはその道を注意深く避けるように躾けて送り出しています。教育にも力を入れ、まあ学歴がすべてというわけではありませんが、余計な失敗をしないようコントロールしている。そうして代々の家柄というものを築き上げているわけです。


対してさしたる教育方針も持たない家系は、そういうことに特段力を入れず、この社会に通底する概念を、子供に教えぬまま送り出します。そうしてその子供は人生に於いて自力でその概念を学び取ります。もちろん、心身に手痛い代償を負いながら。


どちらも結局行き着くのは、『人生はク〇』、という単純な事実です。でも前者はそれをかなり軽減してソフトに受け取っている。後者は、文字通り身体全体で手酷く受け取っている。


厳しく育て上げられるというのがいい、ということばかりではありませんが、社会に於けるそのような仕組み、或いは通念のようなものを、教えて貰えるか貰えないか、そのことがこの世をうまく生き抜くための分岐点、のような気がします。そしてそのヒントのようなものも教えてくれない親は、確かに親ガチャ失敗と言われても仕方ないのです。

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