会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

誰かを犠牲にする社会

こんにちは、curiosです。


私はいまの会社ではどちらかと言えば悪者にされやすい存在でした。


例えば機械整備を担当していた頃は、ネジを折ってしまったり、部品をダメにしてしまったり。そういうのを逐一上司に報告されてしまっていた。


勿論、その職場の他の人だって壊したり、ダメにしたりはします。ですが大目に見て貰える人と、許して貰えない人(つまり私)は確実に存在しました。


そしてその匙加減はその人が気に入るか気に入らないかの問題だけだったようです。またコイツには少々言っても大丈夫だろうという雰囲気があるかないか。残酷なようですが、それが世の中の真理です。


結局、いまの職場は、『誰かを犠牲にして成り立っている』職場だったと思います。誰か弱い者に罪を着せて、それでうまく回っていくような職場。


結局、私はその機械整備の仕事から外され、普通の作業員としてやって行くことになりました。


ですがそういう『悪者』にされた存在として、周りを見渡してみれば、実はこの社会の構造が、『誰かを犠牲にして成り立っている』社会であるということがわかります。


この構造が無くならない限り、『いじめ』などの問題も無くならないと思います。学校でのいじめはわかり易いので社会問題として取り上げられていますが、社会や職場でのいじめは巧妙というか複雑です。またその職場としてはいじめに加担しているという意識は無くても、その職場特有の掟や慣習が、弱い者を排除するという図式になっている場合もあります。


過去に偉い人が予言した通り、人というのは絶対に平穏無事にやって行けないのです。それに対して戦うか、そういうものから関わらないよう距離を置くか(つまり辞めるか)、それは人それぞれの選択です。


そして、今は距離を置く人の方が多くなっているような気がします。

×

非ログインユーザーとして返信する