会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

取り残され感

いまやっている仕事は検針の仕事のみで、どこかに勤めていたりすることはありません。


昨年の7月から2ヶ月間だけ、監視業務の仕事に就きましたが、どうやら自分はもうどこかに所属するということは出来ないみたいです。


空いている時間は、殆どをネットサーフィン、読書、趣味的なことに充てています。


働いていない時間の方が圧倒的に多くなっています。


若い頃はこんなことはしていなかったと思います。まだまだ先が長いので、どこかの会社になんとか入ってやって行こうという気概があったと思います。


言ってみれば社会からの『取り残され感』に怯えていたということになります。


いまはどうでしょう?


『取り残され感』にはまったく怯えていません。それどころか、もうその手には乗せられないぞ、バカな大人どもが、と居直っています。


この『取り残され感』を演出するのは、世間体に縛られたバカな大人どもの仕業です。


例えば久しぶりに親戚の叔父に会ったとしましょう。


「なんだ、お前どこに勤めてるんだ?なに、無職だぁ~?ケッ、みっともねぇ、早く仕事しろ!」


こんなやり取り、容易に想像が付くと思います。


こういう俗物が、世のなかを支配しているんだと思います。


仕事に就いてないと、なぜみっともないのか。その理由をキチンと当人に説明出来るとでもいうのでしょうか?ただ単に、自分が定職に就いているからそれを誇示したくてブチまけてるんではないでしょうか?


若い頃から社会に馴染めず、人間関係に疲れ、会社組織を転々と渡り歩いた社会不適合者の私は、その叔父にどれだけ愚弄されたかわかりません。世のなかには、普通に社会に出るということが、それだけで拷問に等しい人間もいるのです。勿論それは弱者の言い訳だったとしても、その弱者なりに生きてはいるのです。


その『取り残され感』によって、50代前半まではなんとか喰らい付いて来ました。それは良くも悪くも、人を社会に縛り付ける呪文のような効果は果たしていたと思います。


その呪文から逃れ、晴れて無職の身になったことで、ようやくそういった大人たちの『えげつなさ』が見えて来たような気がします。


この社会を構成している大人たちは、下衆という言葉を以てしても足りない存在です。そして私はそのような存在に苦しめられている人たちに、こういった事例を示すことで自信を回復して欲しいと願っています。

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