会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

社会の暗い所ばかり見えてしまう

こんにちは。


山へ向かう時などに地元の集落を通るのですが、もう寂れているのを通り越して、『死んでいる』といった方が相応しい所があり、虚しい気分になってしまうことがあります。


空き屋があるのは勿論、明らかに手が入れられていないとわかる家があったり(それでも人が住んでいる気配がするのが余計に物悲しい)、屋敷回りにゴミが山積みになっていたりするのを見ると、もうものの哀れを感じてしまいます。


そして、歳を取った人が独りで暮らしていると、自ずとああなってしまうんだろうな、と感じます。


私は若い頃からそういう虚しさみたいなものに敏感な方で、社員旅行で温泉地に行っても、豪華な旅館の脇にゴミが山積みになっていたりするのを見ると、それだけでブルーになってしまうことがよくありました。皆なはこれから始まる宴会や、夜の歓楽街のことでウキウキしているでしょうから、その落差というのがより目立ったと思います。いつしかそういうものとは疎遠になって行きました。


よく社会の暗いところばかり取り出して見るのはよくない、という話を聞きますが、もしそうだとしたら、私はそれを若い頃から率先してやっていたということになります。社会のマイナスの面ばかり拾って、それを貯め込んで行ってしまい、より虚しさを募らせる、という感じですね。


ですが社会のそういう面も間違いなく社会の一面です。明るい面ばかり取り上げて、なるべくこういう所を見るように、なんて、白々しいと思いませんか?それはTVでも同じことがいえると思います。バラエティなんか見ていると、皆なではしゃぎまくって、ちょっとした発言にも手を叩いて大ウケしています。そうして番組最後までそのテンションで駆け抜けて、楽しい空間を演出していますが、番組が終わってしまえば、そんなものはどこ吹く風です。


どうしてこの社会というのは明るい、もしくはテンションの高いことばかり要求するのでしょう?笑顔が大事、なんて言いますが、その適性みたいなものをキチンと判定してくれたんでしょうか?無理矢理笑っているような感じでも、やはり笑顔がいいのか?本当に、この社会の仕組みは複雑です。


私はもう仕事をしていないので、詰まらない時は詰まらない表情をしても構わないですし、無理にテンションを上げて周りに合せる、ということをしなくていいので、どんなに楽になったかわかりません。よって自分の感情に素直になればいいので、だらけているときは思いっ切りユルい顔をしていると思いますし、機嫌の悪い時は思いっ切り顔をしかめていると思います。いま現在社会参加している人からすれば、許されない行為だと思います。


ただ、なぜいまの社会が、そういうもの(笑顔のようなもの)を要求するのか、いま一度議論をしてみてもいいのではないか、と思います。

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