会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

素粒子

こんにちは、curiosです。


今日も地元の山に登って来ました。


朝方は雨が降っていたのですが、登る頃には上がり、涼しい気候で登山することが出来ました。


頂上でコーヒーを淹れ、しばし休息。


今日は予報も悪かったので登山客も見当たらず、ずーっと考え事をしていました。


山頂という、日常の時間軸から外れた場所にいると、不思議とこの宇宙の成り立ちのことを考えます。


例えば私たちは一人ひとり姿かたちも違いますが、突き詰めていけば最後の最後は『素粒子』になるとのこと。


横に生えている木も、その上で鳴いている野鳥も、職場のいけ好かない連中も、バイクで来る途中に見た後ろ姿の気になる女の人も、選挙のポスターに写っているお偉いさんも、街宣カーに乗って軍艦マーチを流している某〇翼団体の人も、そして勿論私も、皆な素粒子。


そしてここを読んでいるあなたも素粒子なのです。


そう考えると不思議ですよね。皆な同じ物質で構成されているだけの存在なのに、進み行きがこれだけ違ってしまうとは。


誰がこの複雑で不明瞭な世界を造り上げたのでしょう。そして目的もわからないまま私達は生き続けている。その状態に不満があるなら、自ら生命を絶つしかない。


でも恐らく大部分の人は、不満を持ちながらも、生き続ける道を選ぶ。それはただひとつ、『死ぬのが怖い』からです。


何故生きる?=死ぬのが怖いから


これが生きる意味の最大の理由のひとつです。これに異論を唱えられる人はいないのではないでしょうか。


だから某国で起きている戦争なんかも、意外とそのことを忘れられる、という点において、当事者同士はそんなに悲壮感がないのです。戦っている間は、何故生きるんだろう?なんて問いかけは浮かびませんから。そんなことより今を生き延びること、それだけに全てを没頭させることが出来る。


勿論戦争を賛美しているわけではありません。


でも世界で内戦や紛争が無くならないのは、そのせいもあります。そういうことに没頭していれば、生きているという実感が湧いて来る。何故生きるんだろう?なんて問いかけをしてるヒマなんてありませんから。


素粒子から紛争まで。これが今日の山頂で考えたことのひとつです。

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