会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

やつらの足音のバラード

私が小学生当時、夕方の4時から6時頃までは、昔のアニメの再放送枠でした。


学校から帰って来て、しばらく我慢していれば、夢のアニメだだ流しタイムに突入したのです。


昔のアニメには色々なことを教えて貰ったような気がします。


昔のアニメはおどろおどろしいものが多く、暗いタッチとも相まって、ある種のカオスを提供していました。また社会の理不尽さのようなものを扱った内容も多かったと思います。ドロロン閻魔くん、妖怪人間ベム、ゲゲゲの鬼太郎、ルパン三世。


どれも楽しいというだけでなく、この社会に潜む恥部や暗部をなんらかの形で引き摺り出そうとしていました。


いまの時代では放送コードに引っ掛かるような内容も平気で流しており、当時の社会の大らかさというか、反体制の人たちの逞しさを感じさせました。


さて、そんなおどろおどろしい系が群雄割拠するなかで、スコーンと突き抜けた作品もありました。


マンモスが大地を走り、石おのを持った原始人がそれを追い掛け、死神が馬に乗って人の首を刈ろうと奔走します。



この『はじめ人間ギャートルズ』は、いろんな意味で子供心をくすぐりました。いちばん惹かれたのはあのマンガ肉です。


こんな肉を、登場人物たちが手で持ちながら口で引きちぎって食べます。そのさまが見ていてとても美味しそうで、子供心に、いつかあんな肉を食べてみたいと思うようになりました。


また昔のアニメは主題歌やエンディングテーマも深いものがありました。アニメを見終わった後、アツくなっている頭を、ジーンと冷やしてくれたり、しんみりとした感情で満たしてくれたりしました。


そのなかでも秀逸なのが、『やつらの足音のバラード』です。これはマンガ原作者の園山俊二さんが作詞し、かまやつひろしさんが作曲しました。



あのアニメのバカバカしい内容から一転、宇宙の誕生を思わせる、壮大な叙事詩のようなエンディング、これはシビれました。聞いているだけで、宇宙に誕生した当時の、吹きさらしの地球にいるような気がします。


大げさでなく、私はこの曲が日本で作られた歌のなかでベストなんじゃないかと思います。

これ以上の円安はどうかと思う

GWが始まってから、あまり出掛けるということをしなかったのですが、昨日は所用があってお隣の県に出向いて来ました。


県境の道は、かなり混雑しているかと思ったのですが、ガラガラでした。まあ4/30は平日なので、仕事の人も多かったということだと思います。


でもそれを差し引いても、普段のGWの人出からは程遠い感じがしました。向かった先でも、駐車場が結構空いていて、賑わいがありません。なんだかガラーンとしている印象です。


昨今の円安で、打撃を受けているのは一般の人たちで、大企業やお役所などに勤めている人たちはウハウハだと思っていたのですが、やはり世間の流れというものを無視することは出来なかったようです。まあお金持ちほど無駄な出費はしないという特性がありますので、こんなときに出歩くのは愚の骨頂なのでしょうが。


日本が円安になって得をしているのは自動車関連などの輸出企業ですが、いまの日本には円安が追い風になる企業はそれほどありません。それどころか原材料を仕入れなければならないため、輸出企業であっても円安がダメージとなる会社は多いのです。


日本に来た外国人が、物価が安いといって喜んでいますが、インバウンド需要だなどと言っているうちに日本人の購買意欲の方が萎んで行ってしまう可能性が高いのです。これを是正するためにはGW明けぐらいには日銀が、利上げに向けたアナウンスをする必要があるのでは?と思います。


お前みたいな素人になにがわかる、と一笑に附されるかもわかりませんが、素人だからこそ
一般庶民の目線から物事を見ることが出来るという強みもあるのです。

人間は誰しも、食うためには働かなくてはならない、という根本原則を、子供の頃に植え付けられます。


『働かざる者食うべからず』、という言葉は、人生の教訓のようにして刷り込まれます。


ですが、人間は働かなくたって、お腹は減るのです。


働いていないから飯を食べる権利はない、なんて、あまりにも理不尽過ぎます。


生きている限りはなんらかの栄養を摂取しなければならないのです。


その事実を踏まえて、『働かざる者食うべからず』という言葉を再考してみます。


働いていれば、通常の状態よりはカロリーを使うので、働いている者の方がより食べる権利がある、という理屈はわかります。


ですが、だから働いていない者は食べる権利がない、という理屈は成立しません。


働いていない者は働いている者に対して、控えめにカロリーを摂取しなければならない、という理屈ならわかります。その方が身体にもいいし、食費も掛かりません。


医者もそのように指導するはずです。


この『働かざる者食うべからず』、といった言葉はどの時代に生まれて来たのでしょうか?


恐らく、昔の小作と地主の時代に生まれて来たと思います。その頃の農家は貧しく、食うために働かなくてはいけませんでした。子供は農作業に従事させるための存在でしかなく、それも出来ないような子供は恐らく捨てられたと思います。


働いても働いても、暮らしぶりは楽にならず、貧しさから娘を身売りする家もありました。その娘たちは吉原や飛田などの遊郭に連れていかれ、遊女として一生を終えました。


日本の近代には、まだこんな悲惨な構図が残っていたのです。


ですが、どうしてこんな悲惨な構図が生まれたのか?


地主と藩主が結託して、自分たちの地位がより盤石なものとなるよう画策したということでしょう。小作人たちの生活の向上なんてことは微塵も考えず、ひたすら自分たちの富を追求していったのです。


小作人たちは、食うのに精一杯というぐらいの稼ぎしか得ることが出来ず、不作や飢饉のときなどは、離散や一家心中といった手段も選ばざるを得ませんでした。いうなれば極限状態まで追い込まれたということです。


そんななかから、『働かざる者食うべからず』、という一連の流れが出来上がって行ったと思われます。


話しが逸れましたが、いつの時代にも、民衆を欺いて暴利を貪ることしか考えていない為政者、それに付き従うコバンザメのような連中が存在します。


取り敢えず食うのには困らなくなった現代、そのような存在に我々庶民は寛容になっているのかも知れません。


もう一度、あの小作時代の過酷さ、理不尽さを思い起こすべきだと思います。


土 (新潮文庫)
土 (新潮文庫)
新潮社


私はもうこんな時代に戻るのはご免ですが、時の権力者に対するシンプルな怒りをジワジワと持続させるには、当時の小作民の生活を驚くほど克明に描いたこの作品が有効かと思います。


この作品の序を書いた夏目漱石は、


「かような生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んでいるという悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱き締めてみたら、きみたちのこれから先の人生観の上に、またきみたちの日常の行動の上に、何かの参考として利益を与えはしまいかと聞きたい」


と問いました。


人間存在の不条理さ、それに抵抗しようとする逞しさを驚くほどリアルに、淡々と描いています。