会社生活を駆け抜け(た)日々

山に釣りに、リタイヤ後の人生を謳歌する日々です

人間は差別と偏見の生き物

日本人に限らず、人間という生き物は差別や偏見と共に生きて来ました。


差別というのはされる側にとってみれば嫌なものですが、差別する側は一種の優越感のようなものを味わえるわけですからなかなか止められません。例えば日本人は他のアジア諸国よりも民族的に優れているという意識を持っていると思います。これは誰の心にもある暗黙の事柄だと思います。


こういう国家や民族的な差別だけでなく、同じ民族のなかでも差別というのは存在します。例えば家柄、学歴、出身地、外見的特徴など、様々です。なかには自分の家系に対して並々ならぬプライドを持っていたりする人もいます。恐るべきことに、自分の先祖は〇〇藩のお殿様だった、などと喧伝する人もいます。世が世なら、あなた方とは口も聞けないぐらいの存在だったんですよ、なんて冗談交じりに言われたこともあります。恐いですよね、そんなあり得ない仮定の話をされて、世が世なら、なんて言われても・・・。


ですが私はここに差別という問題の、根本があると思っています。差別というものが発生するのは、伝統や文化的優位性を、鼻にかけることから始まります。その姿は滑稽ですらあります。ですが本人たちにはその姿が見えていません。その人たちはその家柄や伝統、つまり過去の栄光にすがることでしか、自分のプライドを維持することが出来ないからです。


つまり、そういう人たちは、未来に向けてのプラス要因が、現状では見付けられない、ということになります。努力して、なにかを手に入れる、事業を起こして、成功する、そういう健全で前向きな発想が欠如している。そして、自分の先祖は代々〇〇だった、ということに、ひたすらすがり付いている。


大体において、差別される側というのはそういうバックボーンみたいなものが無い人たちです。その為、かなり不利な位置からのスタートを余儀無くされます。ですがその分、不屈の闘志を持って物事に取り組むことが出来る。まったくのゼロから、何かを成し遂げた人たちというのは、見ていて清々しくもあります。


そして私も、どちらかと言えば差別されて来た側と自負しているので、そういった人たちの方にシンパシーを感じてしまいます。新しいものを作り出したり、現在の体制に疑問を感じて動き始める人たち。そういう人たちの活躍は、まるで我が事のように嬉しく、誇らしく感じてしまいます。


そして残念ながら、いまの日本は、そういうものとは無縁の国になりつつあります。つまり前者のような、伝統を鼻に掛けるような人たち、そういった勢力の方が優勢になっていると感じます。それは国家全体の傾向にもなっているように思います。


日本という、ヘタに格式があって、伝統もある国がそうなると、かなり厄介なことになるでしょう。過去の栄光にすがり付き、新しくなにかを始めるということをことごとく否定する、凝り固まった思想の持ち主・・・。これは本当に、いまの日本の根幹をなす人たちの姿だと思います。


いまのうちに、そのような悪しき習性を、排除するような指導者ないしはムーブメントが生まれないと、日本という国は本当に落ちぶれて行くしかない、地獄への片道切符を手にして疾走しているも同然の状態だと思います。

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