会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

地元の街並みを走ると、自分が囚われの身と思う

こんにちは、curiosです。


私は静岡のとある片田舎に住んでいます。富士山が近くにあり、小さい山が幾つもある、これから発展していくとは言い難い町です。


街並みはご想像のように、ひなびています。ひなびた、というのは主に観光地などでいい意味で使われる言葉ですので、正確に言うと『終わってる』という感じです。目抜き通りの商店街などは畳んでしまっている店が殆ど。まあ昔からの商店街というのはどこもそんな感じですが。


そんな街並みを買い物や役場へ行く用事などで時々走ります。つづら折りのカーブ、坂道、民家の脇、いろんな所を走り抜けます。


やはりこの町も高齢化が進んでるようで、街並みにも生活感が滲み出ています。民家の庭には大抵畑があり、年配の方が手入れをしています。また軽トラの横には遥か昔の動かなくなったクルマ(コケが生えて雑草に覆われてる)が置いてあったり、なんだか切なくなります。


ある程度の住宅街を抜ける時も、なんだか活気がない。そして昔はそれなりだった、という門構えの家も、その立派さ故にみすぼらしさが目立ってしまう。なんというか、今を生きている『アップデート感』がないんです。


ですが逆に、みんなのんびり暮らしてるんだろうな、という感じはあります。よくも悪くも、この町の町民性は、『おっとり気質』ですから。なんだか皆、働かなくても食っていけてるような印象を受けます。高齢の方は年金も貰えるし、意外と財産を持ってる旧い家も多い。生活保護を受給している方もいるでしょう。


なんだか、この街並みを走っていると、つくづく自分が『囚われの身』ということを実感します。囚われの身というのは、もちろん今の会社でこき使われていることを指します。明らかにこの空気感は、そんなに頑張らなくてもなんとかなるんだぜ、ということを自分に訴えかけていると思います。そしてそれは間違っていないと思います。


僅かばかりの給金と、社会にしがみつくためにあくせく働く自分に、そんなに頑張って体を壊したらどうする?というシグナルを送ってくれている。そんな気がします。


世の中にはいろんなメッセージがあり、その気になればそれを受け取ることが出来ます。私はそれを地元の町から受け取りました。

身を持って実感したこと

こんにちは、curiosです。


私は眼がいいです。眼がいいというよりも視野が広いというべきか、とにかく何かを見つけたり、探し物をしたりするのが得意です。だから眼だけは大事にしようと思っていました。


私の職場は以前にもお話しした通り、過酷な業務が日常となっている職場です。今日は大きい機械(ショベルのようなもの)に乗って、落ち葉を片付ける、という仕事をやっていました。


林のなかでの作業で、大きい重機を操るのは気を使います。木々にぶつからないよう、慎重にショベルを操ります。


やって来た2tダンプに落ち葉を積み、そして満杯にしたら次のダンプに積むという作業です。


すると、ショベルの運転席の屋根に、小さい枝が引っ掛かりました。そのままバックし、枝がそこからピンッ、と外れ、それは、私の瞼に当たりました。よくある枝が跳ねる、というやつです。


私は思わず眼を押さえました。結構な衝撃だったし、痛みで眼が開けてられなかったからです。


そして病院に行かせて貰う、と所属長に伝え、眼科に行きました。幸い、眼球に傷は付いたものの、大事には至らず、無事に戻ってくることが出来ました。


ですが仕事が終わって、皆が集まった時に、一人が私の顔を見て、『何処を打ったんですかぁ~?』と、まるでからかうような口調で言って来ました。その顔は、半分笑いながら、どこも悪くないじゃないですか、とでも言いたいようでした。「いや、眼球に傷が付いて、大事には至らなかったんでよかったんだけど」、と説明したものの、どうやら何もないのに怪我のフリをしたという風に決め付けたいようでした。他の仲間も特に何も言わず、だんまりを決め込んでいました。


これだ、と私は思いました。これがこのクズ共の集まりという揺るぎない証拠だ。所属長も助けるような素振りは見せず、ヘタすればこちらを悪者にしようという雰囲気です。


ですが私はもう(意思表示はしてないものの)ここを去ると決めた人間です。それ以上弁解はせず、『まあよかったです』と話を切り上げました。その実、こいつらとは死んでもつるまないぞ、と再度心に誓いました。


それと、自分の選択にも再度自信を持ちました。眼というのは本当に大事です。再就職時にも、眼の良さは様々な選択肢を産んでくれます。私は大型二種免許を所持しているのですが、運転手というのは、いつの時代も、最低限の需要があります。その為に、眼を大事にしておくこと。自分の今日取った行動はなにひとつ間違ってはいない、と確信を持ちました。


反面教師と言えば聞こえはいいが、本当に『クズ』しかいないこの組織。今回の一件でも、身を持って実感してしまいました。

自分の選択は間違っていない。自信を持て。

こんにちは、curiosです。


いまの職場に不満を持っていて、いざ他の職場に移るという選択をしたとき、ふと不安に見舞われることがあります。


何故だかはわからないが、いまの職場がそんなに悪くないんじゃないか、という思いと、また新しい職場でゼロからのスタートになる、といった不安要因が、人をそんな気持ちにさせるのではないでしょうか。


会社なんてどこへ行っても同じさ、という台詞を聞いたこともあります。その方はもう定年を迎えていて、私のなかなか定まらない会社員生活を揶揄するような口調でそんなことを言いました。付け加えるように、『何処へ行ってもダメな奴は、ダメ』とも言いました。恐らく私のことを言いたかったのでしょう。


ですが社会に対する耐性、のようなものには個人差があります。その方にとってはなんてことのない出来事が、自分にとっては致命傷となる場合もある。極論ですが、SNSで非難されただけで死んでしまう人がいるのです。死んでしまったら、元も子もありません。


だからそこでの忍耐が限界に近くなったら、構いません、逃げてしまいましょう。


私は、『生きてるだけで丸儲け』という言葉には素直に賛同出来ませんが、『逃げるが勝ち』という言葉には賛同します。本当に、鬱になって死を選ぶ選択よりは、その会社を去るという選択の方が正しい


これも過去のエピソードですが、親戚の叔父が、なにかの集まりの時に、『何時までフラフラやってるんだ』といったような意味の嫌味を言って来たことがあります。心配してる、と言えば聞こえはいいですが、その人の心情や、苦しさということにはまったく考慮していない、無神経な発言でした。


お前なんかに何がわかる?と思いました。そしてその叔父とはその後怒鳴り合いの大喧嘩をして訣別しました。それまでも不愉快な言葉を散々投げかけて来た人間です。後悔はまったくありませんでした。


世の中はこういった人間で溢れています。若い頃はそういった類の言葉に惑わされることはありましたが、いまでは全くありません。自分の考えに自信を持ったからです。


自分の選択は正しい。自信を持て』如何なる場合でも、そう思って生き抜いていきましょう。