こんにちは、curiosです。
私は静岡のとある片田舎に住んでいます。富士山が近くにあり、小さい山が幾つもある、これから発展していくとは言い難い町です。
街並みはご想像のように、ひなびています。ひなびた、というのは主に観光地などでいい意味で使われる言葉ですので、正確に言うと『終わってる』という感じです。目抜き通りの商店街などは畳んでしまっている店が殆ど。まあ昔からの商店街というのはどこもそんな感じですが。
そんな街並みを買い物や役場へ行く用事などで時々走ります。つづら折りのカーブ、坂道、民家の脇、いろんな所を走り抜けます。
やはりこの町も高齢化が進んでるようで、街並みにも生活感が滲み出ています。民家の庭には大抵畑があり、年配の方が手入れをしています。また軽トラの横には遥か昔の動かなくなったクルマ(コケが生えて雑草に覆われてる)が置いてあったり、なんだか切なくなります。
ある程度の住宅街を抜ける時も、なんだか活気がない。そして昔はそれなりだった、という門構えの家も、その立派さ故にみすぼらしさが目立ってしまう。なんというか、今を生きている『アップデート感』がないんです。
ですが逆に、みんなのんびり暮らしてるんだろうな、という感じはあります。よくも悪くも、この町の町民性は、『おっとり気質』ですから。なんだか皆、働かなくても食っていけてるような印象を受けます。高齢の方は年金も貰えるし、意外と財産を持ってる旧い家も多い。生活保護を受給している方もいるでしょう。
なんだか、この街並みを走っていると、つくづく自分が『囚われの身』ということを実感します。囚われの身というのは、もちろん今の会社でこき使われていることを指します。明らかにこの空気感は、そんなに頑張らなくてもなんとかなるんだぜ、ということを自分に訴えかけていると思います。そしてそれは間違っていないと思います。
僅かばかりの給金と、社会にしがみつくためにあくせく働く自分に、そんなに頑張って体を壊したらどうする?というシグナルを送ってくれている。そんな気がします。
世の中にはいろんなメッセージがあり、その気になればそれを受け取ることが出来ます。私はそれを地元の町から受け取りました。