人間は誰しも、食うためには働かなくてはならない、という根本原則を、子供の頃に植え付けられます。
『働かざる者食うべからず』、という言葉は、人生の教訓のようにして刷り込まれます。
ですが、人間は働かなくたって、お腹は減るのです。
働いていないから飯を食べる権利はない、なんて、あまりにも理不尽過ぎます。
生きている限りはなんらかの栄養を摂取しなければならないのです。
その事実を踏まえて、『働かざる者食うべからず』という言葉を再考してみます。
働いていれば、通常の状態よりはカロリーを使うので、働いている者の方がより食べる権利がある、という理屈はわかります。
ですが、だから働いていない者は食べる権利がない、という理屈は成立しません。
働いていない者は働いている者に対して、控えめにカロリーを摂取しなければならない、という理屈ならわかります。その方が身体にもいいし、食費も掛かりません。
医者もそのように指導するはずです。
この『働かざる者食うべからず』、といった言葉はどの時代に生まれて来たのでしょうか?
恐らく、昔の小作と地主の時代に生まれて来たと思います。その頃の農家は貧しく、食うために働かなくてはいけませんでした。子供は農作業に従事させるための存在でしかなく、それも出来ないような子供は恐らく捨てられたと思います。
働いても働いても、暮らしぶりは楽にならず、貧しさから娘を身売りする家もありました。その娘たちは吉原や飛田などの遊郭に連れていかれ、遊女として一生を終えました。
日本の近代には、まだこんな悲惨な構図が残っていたのです。
ですが、どうしてこんな悲惨な構図が生まれたのか?
地主と藩主が結託して、自分たちの地位がより盤石なものとなるよう画策したということでしょう。小作人たちの生活の向上なんてことは微塵も考えず、ひたすら自分たちの富を追求していったのです。
小作人たちは、食うのに精一杯というぐらいの稼ぎしか得ることが出来ず、不作や飢饉のときなどは、離散や一家心中といった手段も選ばざるを得ませんでした。いうなれば極限状態まで追い込まれたということです。
そんななかから、『働かざる者食うべからず』、という一連の流れが出来上がって行ったと思われます。
話しが逸れましたが、いつの時代にも、民衆を欺いて暴利を貪ることしか考えていない為政者、それに付き従うコバンザメのような連中が存在します。
取り敢えず食うのには困らなくなった現代、そのような存在に我々庶民は寛容になっているのかも知れません。
もう一度、あの小作時代の過酷さ、理不尽さを思い起こすべきだと思います。
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私はもうこんな時代に戻るのはご免ですが、時の権力者に対するシンプルな怒りをジワジワと持続させるには、当時の小作民の生活を驚くほど克明に描いたこの作品が有効かと思います。
この作品の序を書いた夏目漱石は、
「かような生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んでいるという悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱き締めてみたら、きみたちのこれから先の人生観の上に、またきみたちの日常の行動の上に、何かの参考として利益を与えはしまいかと聞きたい」
と問いました。
人間存在の不条理さ、それに抵抗しようとする逞しさを驚くほどリアルに、淡々と描いています。