会社生活を駆け抜け(た)日々

55歳でひとまず会社生活に区切りを付けたその後の日々

ラクに生きて何が悪い?

こんにちは、curiosです。


さて、この日本という社会においては、勤勉であるということがなにより美徳とされます。会社においても、まず仕事のことを考え、皆なで一丸となって取り組んで行く。個人の思想や思惑などは取り敢えず脇に置いておく。


昭和の終わりま頃では、この考えが機能していたと思います。日本がグングン豊かになって、誰もがその恩恵を享受していた。社会にも希望が溢れていた、と思います。本当に、働いていさえすれば、幸せな将来設計を描くことが出来た。


平成の中盤から、すこし社会の雲行きが怪しくなってきました。バブルがはじけたこともあって、経済にやや陰りが見え始めて来た。でもそれまでの余力のようなものがまだあった。社会は物で溢れ、TV番組もいまのようなスカスカではなかった。この頃が豊かさと言う面では一番だったと思います。


それと同時に、一人ひとりの考え方に、幅というものが出て来た。『ゆとり』という言葉が出て来たのも、この頃です。またそれと同時に『ひきこもり』という問題も出て来た。食べるものや生活に困らなければ、楽をして生きたいという人は必ずいます。


私の考えも、どちらかというとここに近い。なぜこんな高度な文明を手に入れたのに、人はあくせく働き続け、過酷な業務をこなさなければいけないのか?これはずっと思ってきたことでした。


日本という国は、国全体が、ひとつの巨大な企業体のように思えます。怠けたりしていると、たちまち叱責を受けてしまう。皆なが日本という会社の、従業員であると同時に他の人を見張る監視員なのです。


ですがまだ社会が希望に満ち溢れていた時代だったらそのような叱責も耐えられるでしょう。その叱責に見合うだけの対価(給料)を貰えたのですから。ですが今の日本は『派遣労働』という形で実質的な賃下げをされてしまった。その中で、罵倒や叱責をされながら働く、そのことに疑問を抱くのは至極当然だと思います。


いま勤めている会社にも、そのような空気はあります。まるで自分が給料を払ってるんだ、とでもいうような口振りでものを言って来る人間。ちょっとでも怠けたら、すぐさま叱責する、或いは上層部に密告する人間。


私は、本当に愚かだと思います。何故自分の首を自分で絞めるような真似をするのか。給与労働者という点では皆同じです。すこしでも、労働者側に優位になるように、皆で団結して立ち向かって行かなければならないのではないか?貰える対価が少ないのなら、そのことに対して声を上げるべきで、決して同志を槍玉に挙げるために上げるべきではない。


恐らく、皆な余裕がなくなって来ているんだと思います。日々の生活をこなす程度の稼ぎしか貰えなく、将来への希望もない。いまちょうどTVで木下富美子都議のニュースをやってるのですが、こういうポカをやってしまった人達へのバッシングも、未来へ希望が持てなくなってきていることへの証拠だと思います。マスコミも、自分たちのしでかした不始末には寛容なくせに、制裁を振りかざしやすい対象には容赦がありません。


話を元に戻しますが、恐らく私の会社も、余裕のない人たちが多数派だと思います。そのなかで、他人の仕事を監視し、監視され、まるで奴隷のように日々を生きている。私も一応はその『フリ』をしていますが、もう私は着々とそこから『離脱する』準備を進めているのです。


ラクに生きて何が悪い?』という問いかけを、常に胸のうちに繰り返しながら。

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